事故隠蔽のために私を退職させた上司。割り切りがたさを乗り越えたものの、どこかでバッタリ会いたくない。
ここまでのいきさつ 私を陥れた上司は、かつての同僚
先々の関わりの可能性全てを、切り離す。
表情を見たくない
次に、私の側の心情面からの場合分け。
会ってしまう上司を、思い出深い上司像でイメージすると、苦しくなります。
実直なはずの人が、己の行動に苦しんでいるというそれ。
バッタリ会ったとき、上司の表情などから「すまない」的な色が見えてしまえば、
私は(せっかく整理し終えたつもりでも)苦しくなる。
憎むほうがマシ
上司はとうに悪人になっていて、白々しい態度で現れたら、むしろ、自分はラク。
遠慮なく憎めるから。
姿を見てしまうことで「憎む」感情のメーターは上がりますが、
その量は葛藤による苦しみに比べたら、桁違いにマシです。
心置きなく見捨てたいのに
私が苦しいのは、上司の中に「善」を見ようとするから。
バッタリ会ったときの表情から、「悪人」に成り下がっている実感を得たなら、むしろいい。
上司を正しく憎み、心置きなく捨てることができるのだから。
視界からも外すべき
いずれにしろ、会う、会話する、表情を見る、全て避けるべき。
回避しようのない状況下だとしても、一刻も早くその場を去り、視界から外すべき。
そう思いました。
関わりの“後引き”は各自の業
ただ、こうして、わざわざ事前対策をしなくても、もう、二度と会わないことになっているかも?などと思えたりしました。
人生をドラマ仕立てにしたり、運命がどうとか、ことさらに自分をヒロイン視するのはどうかと思います。
が、私と上司がこの世で紡ぐ物語のようなものは、終わったように思えます。
その関わりの“あと引き”は、各自のもの。
苦しみを負うとすれば、それは各自の業。
上司が実は善人で、部下を葬ったことに苦しむとしても、それは私とは関係ないこと。
ひと月後、見かけたものの…
葛藤を乗り越えたと思えてから1ヶ月ほど後、外出した際、上司を見かけました。
痩せも太りもしていない。
「フツーに過ごしていれてるわけ?」と、イラっとしました。嫌がらせの電話でもしてやりたいと思いました。
そして、「やっぱ、イライラするんだ。でも、たまたま老け込んで見えたりすると安堵するんだろうか。それもまた違うような。」どうどう巡りになりそうな考えが浮かんだものの、
一巡くらいで終わり、信号待ち。
カーステレオの選曲作業の続きをやりました。
同乗している(うたた寝していた)夫に報告したぐらいにして、ほどなく、そのイライラは霧散していきました。
残るは「劣化感」の克服!
「許す」も「憎む」もできない重すぎる葛藤と、「劣化感」に苦しんだ私でした。
葛藤を乗り越えた後、「劣化感」克服を目指しました。
そして、退職日からちょうど1年後、私は、新たな足場を得るに至るのです。ごらんください。
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