祖父の鶏小屋で見たモノは、後々まで私に示唆を与えるものに…
温かい思い出をくれたはずの何かを、ただのモノに変えてしまうのは誰?
「モノ」。かつてそれは…
モノ。
命の灯が消えたもの。
痛みを感じることがないもの。
自分の気まぐれで、おもちゃにしていいモノ。
いくら蹴っても殴ってもいいモノ。
かつて、温かい思い出を共有したはずの相手が、ただの「モノ」になってしまう悲しい例は、世の中には少なくない。
温かい思い出はどこに
飼育するのが面倒くさくなってしまった動物を捨てるとき、人は幸せを味わえた過去をすっかり忘れている。
年金を受給し生活費を家にもたらす、高齢の親。
家の片隅に放置しておいても、そこそこ手間をかければ生き続ける。
自分を育ててくれて温かい思い出をくれたことは、とうに忘れてしまい、高齢の親がただの金ヅルになる。
亡くなってしまえば、収入を得続けるため生存を偽り、遺体がミイラになろうがウジが湧こうが放置する。
モノ扱いはすでに始まっていたけど、それが「役立つモノ」から、自分にとって「不都合なモノ」にまで成り下がる(一番近い身内だったはずなのに)。
人間をモノ扱い
報道で知る事件には、そんな悲しすぎる件がある。
でも、重大視される事件じゃなくても、私たちの身の回りにありがちな「いじめ」も、実は、相手をモノ扱いすることの小規模事例だと思う。
相手の痛みに気づく心を、持たないのだから。
その規模は小さい、桁違いに小さいけれど、方向性としては同じだと思うのです。
変わり果てた姿
私は、子供の頃に見た、鶏小屋の片隅の白い羽の塊を、折に触れ思い出します。(血を見て狂う?愉悦の自覚① をご覧ください)
動かないそれ。むごたらしい様。
白い塊といっても、一部、(ひからびた)血の色があった。
角度を変えて見れば、引きずり出された内臓や、受傷で変わり果てた頭などが見えたのでしょう。
早々に視界から外し、なるべく見ないようにしたはずなのに、いつまでも記憶に残ってしまった映像。
思い遣る感覚の麻痺
人間は、鶏じゃない。
ものごとを判断する能力もあるし、感情もある。
でもそれなのに、命あるものが、ただのモノとして扱われてしまう事例は、少なからず在る。
なんて悲しいことなんだろう。
そこに至るプロセスは、短い時間に一気に進むことはないと思う。
一日一日、少しずつ、自分勝手な考えで行動し、わがままを通しているうちに、進んでしまうんだろう。
ちょっとずつ、相手を思い遣る気持ちを忘れていき、時間が経つうちに感覚が麻痺していくのだろう。
相手を思い遣る感覚が麻痺すること、これこそが、人間同士が起こす悲しい事件の「おおもと」だと、私には思えるです。
人間らしい感情
世の中には、憎しみによる事件もありますが、「憎い」という気持ちに裏打ちされた行動は、感情の消失や麻痺によるそれよりも、マシだと思います。
なぜなら、憎しみは、何か大切にしたいものがあったからこそ、生まれる感情だと思うから。
被害者にとっても加害者にとっても、重大な事件であるに違いありません。
ただ、加害者に的を絞って考えるなら、人間らしい感情があってのことだから、まだ、救いがあるように思えるのです。
感情の消失や麻痺
強い憎しみがあるわけでもないのに、加害行動に出るのは、人間らしさを失う入り口だと考えます。
でも、自分も含め、人は弱いもの。
なにかのきっかけで、自分が加害者になりかけることはある。
でも、その途中のどこかで思い留まらなければ。
感情が消失したり、麻痺したりするのを招いてしまう前に、思い留まらなければ。
ましてや、加害に愉悦を感じるようになってしまえば、元に戻ることは難しくなると思います。
自分の心のよじれに気づけるか?!
自分の心のよじれ、ゆがみに気づくことができたら、そして修正を加えることができたら、「いじめ」的な加害も被害も、そして、悲しい事件も、防ぐことができるのでは。
私はそう考えます。
ここで、虐待や殺人事件に至る、当事者同士の関りが深いことは、また別の問題とし、
(大多数の方の)身の周りにありがちな「いじめ」と「誹謗中傷」について考えたい。
さらに、「ネットでの誹謗中傷」に絞り込んで、考えたい。
被害者が負う傷は、ときに命を脅かすほど重大な深さに至ることもある…。
あまりに気の毒な、被害者。
そして、実は、加害者自身も、「己の心がゆがむ」という、状態にある…。
これは、重篤な状態に突き進む入口であると、私は考えるのです!
続きをごらんください 「いじめ、誹謗中傷をやってしまった…。」愉悦の自覚③
“「鶏カゴの片隅の死骸のようなモノ」愉悦の自覚②” への1件のフィードバック