心不全で他界した親友
多感な時代を共に過ごした友人との、永遠の訣れを振り返ります。
25歳の冬に、逝ってしまった…
私の親友は、結婚後、夫と二人の子を残して他界しました。
25歳の冬に。
その親友とは、中学、高校と同じ部活動に所属し、共に学び、鍛え、成果を喜び合いました。
互いの名前の頭文字で呼び合いました。
彼女が「ふー」私は「みー」。
ちょうど習いたての英語の「who」と「me」を当てはめて、交換日記に日々の感想を書き合ったものでした。
中学高校と共に過ごす間、人間関係は時々に変遷し、関りが濃いときも薄いときもありましたが、
「一番の友達は誰」という問いがあれば、互いに互いの名を自然に思い浮かべたものでした。
別々の道を経た後の訃報
高校卒業後、私は大学に進み、彼女は就職しました。
彼女は二十歳で結婚し、ほどなく子を授かり出産。
生まれた子に、私の名前の漢字一文字を含んだ名前を、命名していました。
他県に住む彼女との関りは、徐々に少なくなりました。
世間知らずな学生だった私と、妻として、そして働く母として多忙な彼女とは、手紙や電話でやりとりをしても、共感し合えるものが減っていきました。
そして、数年経った頃の訃報だったのです。
若いのに心不全で
彼女の訃報は、新聞のお悔やみ欄で知りました。
若いのに心不全で亡くなったとのこと。
信じがたく、混乱を抱えたまま遠路を移動し、通夜に出席しました。
妻に先立たれた夫は憔悴し、喪主挨拶も ままならない様子でした。
「何も言ってくれないまま、先に逝ってしまった」と、彼女のお姉さんがこぼしていました。
彼女に似た面差しの幼子らの無邪気な様子を、複雑な思いで見つつ、その地を後にしました。
中学1年の夏
中学1年の夏、自転車を走らせながら、ほとんど叫ぶくらいの大声で話し、笑い合った、私「みー」と親友「ふー」。
当時よくあった光景として、1車線の田舎道を、会話に夢中になって自転車で並進する女学生を見かけたものでした。
2台の自転車が道をふさいでいるので、後続車にとっては追い抜くことができません。
彼女に出会う前に交流した友人も、そうでした。
やむをえず追従している後ろの車の運転手がイライラしていようが意に介さず、おしゃべりに夢中になっているのです。
多感な時代の大切な友達
でも、「ふー」は違いました。
並進せず、ちゃんと道路のはじを縦に連なり走ってくれる友達でした。
坂道を自転車で下る涼しい風の中、大きな声で話し、
風の音が大きくて聞き取れないときは、いっそう大きな声で「なぁにー?」と聞き返し笑い合った友達。
部活のこと、好きな人のこと、家族のこと、好きな音楽のこと、人生をどう生きるかとか、いろんなことを語り合った友達。
多感な時代に鮮やかな印象を残してくれた、大切な友達だったのです。
続きをごらんください 自死と事故死の境目②「親友の死」
“自死と事故死の境目「親友の死」①” への16件のフィードバック