感情のゆがみは、生きること全てに影響する!
監禁事件の被害者が負った重篤な病
プラスの感情
嬉しい、楽しい、ワクワクする、何かを好きだと思う…そういう感情は、人を突き動かす勢いの根源だと思います。
感情のバリエーションとして“喜怒哀楽”という言葉がよく遣われていますが、プラスの感情(喜楽)こそが、人を動かし成長させるものでしょう。
これがゆがむと、人としての行動すべてが ゆがんでいく(他者からは一見、異常なしに見えたとしても)。
マイナスの感情
ちなみに、マイナスの感情(哀怒)が人を前進させることもありますが、それは長い期間持続できるかに疑問が残ります。
たとえ持続できたとしても、別の負荷がどこかにかかる心配があります。
だから、マイナスの感情については、一時的あるいは特別な場合として、ここでは掘り下げないこととします。
快(こころよい)がもたらす、日常の選択
話をプラスの感情に戻します。喜怒哀楽の喜楽です。
これが、人を動かし成長させる大切な原動力だということから再開します。
そして、その「喜楽」を、“快(こころよい)”に置き換えて話を進めます。
私たちは日々、ちょっとした分岐点において選択を重ねて生きています。
朝起きて仕事に行って…と、ルーティン化しているとしても。
どの靴下を履くか、上着を着るか持つか、毎朝似たようなメニューの朝食だとしても、どのおかずから箸をつけるか、など、
些細な選択から始まり、それを重ねています。
そのひとつひとつは、寒暖の差対応や安全対策などの理由で決まることもありますが、
快or不快のうち、“快”を選んでいることが、ほとんどでしょう。
意識的にそうしていようが、無意識のうちであろうが。
そして、その“快”の感情にゆがみがあれば、すべての選択がゆがんでいく。
それは、ゆゆしき事態です。
監禁犯を好きになった?!
“快”の感情がゆがみ、重篤になったと思わざるを得ない事例があります。
誘拐、監禁された女性が、その犯人(加害者)を好きになってしまったという事例。
20年ほど前、知人の職場同僚の件です。
平和に暮らしていた環境からいきなり連れ出し、強姦し、自由を奪い続ける憎い犯人を好きになる?!
そんな信じられない、信じたくない事例です(周囲には、「男の味を知ってやみつきになっただけだろう」そんな言葉を言い放つ人間もいたそうです…)。
これこそが、“快”の感情を、究極まで歪められた実例と考えます。
嫌悪感が麻痺した先には…
監禁されての食事など、食べたいはずがない。
でも、いくら根性があっても、目の前に食べ物がありつつ餓死するなんて、なかなかできない。
生きるためには食事をしなければ。
そしてそれが続いているうちに、その状態を受け入れるしかなくなる。
口にする食べ物に慣れていくしかない…。
気持ち悪い男から強要される性行為を受け入れなければ殺される。
そんな日々が続くうちに、嫌悪する感情は麻痺し、「それもアリ」とするしかない。
心を守るためのはずが
本当はここから離れたいのに。
気持ち悪くて、目を背けたいのに。
気持ち悪い居場所に順応していくしかない。
「気持ち悪い気持ち悪い」と思い続けて日々を過ごすことはできないから、その気持ちに蓋をする。
そうしないと、心を守れないから。
そしてやがて、「自分はそれを望んでいる」と、心をゆがめていく。
本来、健全だったはずの「好き」という感情に重大な歪みを引き起こす。
本当は気持ち悪いのに
気持ち悪い同居生活が半年ほど続いた後、その被害女性が監禁犯から解放された頃のことを、聞きました。
女性の顔は、別人のように表情が乏しくなっていたこと、そして、その監禁男の元に行こうとし家族に止められたことを。
家族が(監禁男を)好きなのかと問い詰めれば、泣いてばかり。
そもそも、ほぼ一日中泣きどおし。
日常生活においても、(何の関係もない)男性が近づくのを恐れて、避ける。
女性ばかり映るテレビ番組など、そうそうなく、「気持ち悪くて見たくない」と、テレビも見ない。
男性が写り込んでる広告チラシも脇に追いやってしまう。
でも、監禁男に会いたい、会ってしまいたいと気持ちが募ってしまうのだそう。
「気持ち悪いのに、どうして会いたいと思ってしまうの?」
絞り出すようにそう発した彼女の言葉が、あったそう。
それが、あまりに重く のしかかります。
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“「感情のゆがみによる重篤な状態」愉悦の自覚⑤/6” への1件のフィードバック