いじめ、誹謗中傷をやってしまった自分。傷つくのは…。
いつまでも残り続ける加害の自覚
魅力的な人が自ら旅立ってしまった
今年、リアリティショーに出演していた若い女性が亡くなりました。
ご本人、お身内、関係者の心の痛みは、計り知れません…。
正直、それまで私は、彼女のことを全く知りませんでした。
皮肉なことに、悲しい一件として報道されることにより、存在を知りました。
可愛くセクシーで、それでいて悪役をこなす勢いがある。
化粧や衣服で鮮やかなピンクやミドリを効果的にまとい、アートとしても世に貢献していると思いました。
イチ視聴者としてメディアで見るだけの私ですが、もう、この魅力的な画(の更新)を見ることができないことを、とても残念に思いました。
「なんって、もったいないことなんだろう」と。
もっと早く、この人を知っていたら良かった。
これからもこの魅力を、世間にふりまいてほしかった。
誹謗中傷の加害者
ネット誹謗中傷の加害自覚がある人たちは、早々にアカウントを削除したようです。
その人たちの中には、これを機に、ネット書き込みについて考え直した人もいるでしょう。
また、加害に苦しんだ結果逆切れ的になり、別な場に攻撃的な書き込みをした人も、いるかもしれない。
そして、なんっとも思わず、これからも、気が向いたら加害的書き込みを続ける人も、いるかもしれない。
でも、この、「なんっとも思わず、これからも加害書き込みを続ける人」こういう人は、実際は、かなり少ないと思われます。
先天的に情緒面に欠落があるのでないかと、別な意味の心配があります。
加害者の痛み
先天的情緒欠落があるわけでもないのに、心の奥が「チリっ」とも痛まずに、(最初も以降も)加害行動を実行できる人は…
実は、いないと、私は思います。
たとえ、加害の最中には痛みの自覚がないとしても、「あの日あの時、痛みを覚えていた自分」に、いつか気づく日が来ると思うのです。
相手を傷つける「ポチっと」
人はたいてい、面識のない人に対して、直接苦言を呈することはありません。
でも、ネットでは別。
匿名で、ごく少ない作業で成立してしまう「苦言」。
一言書いて、ポチっと送信ボタン。
自室でもトイレでも、電車の中でも雑踏の中でも、
なんなら、友人の隣でその友人を傷つける「ポチっと」をやれてしまう。
自分一人の、ほんのちょっとの行動で完遂してしまう。
誰かをいじめてすっきりしたい
「いじめはよくない」このフレーズが叫ばれるようになって久しい、昨今。
誰もが、それを理解しているはず。
でも。
実は、人は心の中のどこかに、「誰かをいじめて、すっきりしたい」という、身勝手極まりない欲望を持っていると思います。
心の奥底どこかに、潜んでいると思います。
たぶん、誰でも。
かくいう私の中にも。
ないつもりの欲望
通常の状態であれば、それは「悪いこと」という認識のもと、ちゃんと押し込められている。
心の中に、あるはずがないとされている。
でも、自分に余裕がなくなったり、追い詰められたりすると、ないつもりのものが立ち上がってくる…。そう思います。
心の中のどこを切り開いても、そんな欲望が全くない人も、いるかもしれません。
でも、「自分にもあるかもしれない」としておいたほうが良いと思います。
なぜなら、その心準備があることにより、自分の変化に気づきやすいからです。
麻痺、消失、そして…
加害対象が、感情を持つ生身の人間であることを忘れてしまう…。
これは、目の前にいない人間に対して起こる、とてもありがちなことだと思います。
それは、ちょっとしたきっかけで、起こってしまう…。
◇◇◇◇ちょっとしたきっかけで起こるそれ。
◇◇◇◇別の角度から
自分の気まぐれで、(“人間”なはずなのに)オモチャにしていいモノになったりする。
相手をモノ扱いしているうちに、相手の痛みに気づく心を忘れ、時間を経るうちに感覚が麻痺、感情の消失、
そしてそれは、やがて、「愉悦」に至る恐れがあります。
誰かをいじめて楽しいと思っているかもしれない自分
「誰かをいじめてすっきり」することにより、その「誰か」の価値を下げてみて、相対的に自分がマシになったような気になる。
そのとき、自分の心に立ち上がってくる「愉悦」。
その快感を味わえば味わうほど、やめられなくなる。
誰でもそうだと思います。
私自身も、その「愉悦」を自覚したことがあります。
「あ、私、今、○○さんをいじめて楽しいと思ってる?」と。
そう思ったとき、正直、ショックを受けました。
自分のことなのに、自分にショックを受けたのです。
そして、その行為に至った自分が、苦しい状況にあることを、改めて自覚しました。
人に当たるくらいなら、モノに当たる
いじめ行動より、マシなことをしようと思いました。
単純に、「人に当たるよりモノに当たる」ことを。
うっぷんを発散するために、目の前の物を何個も蹴り倒しました。
古い机などを保管している場所でした。
手前の物を蹴り倒すと、奥にある物が目に入ります。
まだ倒れていない物があることが気に障り、倒れていない物全てを蹴り倒すまで、続けました。
足が痛くなりました。
座り込んで、小さい窓から見える空を眺めました。
息が上がった状態も徐々に落ち着き、もんのすごい有様になった室内を見ました。
蹴り倒した物を元に戻す道程の長さに、笑えてしまいました。
時間をゆっくりかけ、復旧作業。
「なぁにやってんだか」と思いながら、一つ一つを起こす。
その作業をすることで、少しずつ“何か”が落ちていったように思います。
別件ですが、うっぷん晴らしとして、紙に自分の思いを書きなぐったこともあります(あとで処分)。
友人に胸の内を話したり、思い切った決断(自分にとって無理すぎた人間関係を切るなど)をしたこともあります。
いじめ行動の行く末
ちなみに、私がやってしまった「いじめ行動」は、相手に察知される前に終わり、「被害者」が出ませんでした。
たまたま、以降の後引きもない状態に落ち着きました。
この「いじめ未遂件」の被害(予定)者ですが、実は、周囲への悪影響が大きい人物でした。
誰か天罰を与えてくれと、陰口を叩かれていました。
だから、いじめ実行に至ったとしても、「気の毒ないじめ被害者」というカテゴリには収まりにくいものがあります。
それでもやはり、いじめ完遂に至らず、良かったと思っています。
被害防止の観点で、もちろん、意味があることですが、
加害者の自分にとっても…。
残り続ける「加害自覚」
偶然、首がつながっただけで私は加害者にならずに済みました。
対外的には。
でも、私の中には「加害の自覚」が残り続けました。
そして、加害により自分が苦しみ、負担を抱えるという現実を知りました(「いつバレるか?」不安も含む)。
そして以降、
「苦言を呈するときに“愉悦”を感じているか否か」の自問自答が、
自分を守るために必要なプロセスだと、思うようになりました。
続きをごらんください 「本当は誹謗中傷をしたくないはず…なのに、やめられないあなたへ」愉悦の自覚④
“「いじめ、誹謗中傷をやってしまった…。」愉悦の自覚③/6” への1件のフィードバック